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序章 「横浜」という漁村、「県央」という農村

開港前の「横浜」

横浜は、比較的歴史の浅い都市です。江戸時代に黒船が来航し、米国と条約を結んだことで横浜が開港し、著しい発展を遂げていきますが、それ以前の横浜は、寒々しい漁村の一つに過ぎませんでした。森鴎外作詞で、横浜市民のソウルソングである横浜市歌には、『昔思えば 苫屋の煙 ちらりほらりと 立てりし所』と開港以前の横浜の様子が歌われています。
当時の横浜村は今でいうところの本町や山下町部分に細長く延びていた、小さな砂州に出来た集落でした。それより内陸側の関内・伊勢佐木町から吉野町にかけての部分は、江戸時代前半までは湾となっていました。吉田勘兵衛なる人物がその湾を埋め立てて「吉田新田」を作り上げたという話は、横浜市内の小学校でよく教えられる有名なものですが、それはまた別のお話。
ともかく、少し北には東海道の宿場街「神奈川」があり、またそこに港も存在して東京湾の交通の要衝として重要な役割を果たしていたため、東海道から外れた横浜村の存在は非常に地味なものでした。

横浜開港

江戸時代末期に浦賀へやってきたペリー提督は、日本の開国の一環として「神奈川」を開港するよう求めてきました。しかし、神奈川港は幕府のある江戸と至近であり、また東海道という大幹線に直結していることから、万が一外国船から侵略・攻撃を受けた時に不利になる場所です。そこで、幕府は一計を案じて、横浜村を「神奈川在横浜」と称して開港地に選択しました。東海道から外れた地味な寒村が、一発逆転を果たした瞬間でした。
横浜村には外国人居留地や税関など、国際港として過不足ない設備が整えられ、6月2日に開港を迎えました。その後横浜村は、開港から30年後には「横浜市」となりました。

そのころの県央部

歴史の浅い都市である横浜とは対照的に、県央部では大山街道の宿場町を中心に、歴史ある町が揃っていました。その中でも最も栄えていたのが厚木町です。大山街道はもちろんのこと、相模川を用いた海運によっても栄え、県央1の都市となっていました。沿岸部の平塚と厚木を往復する商人の数は実に100万人にも上り、活発な経済活動が行われていたのです。
しかし、宿場街から一歩外に出れば、のどかな風景が広がる農村ばかりでした。特に現在の相鉄線沿線はその傾向が顕著で、多摩三浦丘陵・相模原台地という水利のない土地であったためか、沿線民は養蚕業と川沿いに作ったわずかな水田でコメ作りを生業に暮らしていました。

西洋文化の流入

横浜をはじめとした各地の港が開港したことにより、次第に西洋の文化が日本に流入してくるようになりました。洋食・洋服といったものが有名ですが、西洋の発展した技術も例外ではなく、イギリスの技術を用いた日本初の鉄道が1872年9月12日に横浜~新橋間で開通した事は、ご存知の方も多いのではないかと思います。
明治政府にとってインフラの整備は至上命題。鉄道の建設は官営からやがて半官半民の私鉄によって行われるようになり、超ハイペースで進んでいきました。
しかし、こういったインフラ整備はやはり都市部が中心でした。農村部では江戸時代と変わらぬ暮らしが続き、移動手段はもっぱら馬か徒歩か、せいぜい人力車といったところ。野菜が出来ても輸送手段は馬車か荷車、船といった具合で、大量輸送は不可能。このままでは不便極まりありません。県央部では各地で乗合馬車事業が興され、やや利便性は改善されたものの、依然として鉄道の優位性は変わらず、また大山信仰の参拝客が多い県央部では、観光客の需要を見込めるとして有力者により誘致が活発化していました。ついには我が手で鉄道路線を作ってしまおうという人々も現れ始め、神奈川県は一躍私鉄戦国時代へと突入していったのです。
現在の相鉄線は、こういった機運から生み出された2つの鉄道会社が、源流となっています。


一章へ続く

2015/10/25寄稿

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