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一章 田舎の小さな鉄道会社

「相模」の鉄道

相模鉄道(以下、旧相鉄と表記)は、1917年(大正6年)12月18日に、茅ヶ崎にて発足した小さな鉄道会社でした。現在では本社は横浜に構えられていますが、これは後に移転したもので、当時の茅ヶ崎町長、伊藤里之助氏をはじめとする茅ヶ崎の有力者の手によって設立されたため、本社も茅ヶ崎にありました。これが現在まで続く「相模鉄道」という会社の始まりです。なぜ「旧相鉄」と表記するのかについては後ほどご説明します。
当時は「軽便鉄道法」の施行や、軌間762mm以上の軽便鉄道に対し政府が利益を保証する「軽便鉄道補助法」が出来たことにより、空前の軽便鉄道ブームが全国で巻き起こっていました。
施行の背景には、国の私鉄買収政策によって新設の私鉄がめっきりなくなってしまったこともありましたが、有力者たちは何よりも既存の法律よりも手続きが簡単であることや、補助金が付いてくることを見逃さず、結果としていくつもの軽便鉄道が全国で生まれていきました。
さて、茅ヶ崎は戦前から戦後にかけ、保養地・別荘地として名を馳せていました。しかしながら、商業中心は相模川を挟んで対岸の平塚にお株を奪われており、茅ヶ崎の有力者たちはこの点を憂慮していました。そこで、ちょうど相模川に沿って軽便鉄道を敷き、茅ヶ崎を交通結節点として発展させていこうと考えたのです。

相模川に沿って

当初考えられたルートは、茅ヶ崎から相模川に沿って北上し、海老名村河原口(現在の厚木駅)、久保沢(現相模原市緑区)、八王子を結ぶというものでした。
建設には出来るだけ多くの株主から資金を集めなければならないため、遠く八王子町の株主を集めようと画策されたものでしたが、結局建設費の方が高くついてしまうことや、相原村の相沢安右衛門氏の猛烈な反対により、ルートは「橋本駅で横浜鉄道(現JR横浜線)に接続する」というものに改められました。相沢安右衛門氏は、横浜鉄道に橋本駅を建設させた相沢菊太郎氏の兄であり、旧相鉄が橋本をスルーするということに関しては到底看過できなかったのです。
沿線には大山阿夫利神社や寒川神社といった寺社仏閣、温泉地等があり、特に「水郷田名」と呼ばれる景勝地が存在していたことは特筆すべきでしょう。また、そのルートから東海道線と中央線の短絡という、鉄道のネットワークを構築する上で重要な位置を占める路線になりうることも示していました。これは後の相鉄にとって図らずも痛手となりますが、それはまた後ほどのお話です。
経営陣はそのほかにも、厚木と平塚を往復する100万人超の商人の交通手段として利用されることを見込んでいましたが、これは相模川の架橋に莫大な金額を要するこの時代には無茶な要求でした。厚木と平塚はどちらも相模川の対岸であったからです。しかし、茅ヶ崎の有力者によって建設されようとしている旧相鉄は、ライバル視している平塚から路線をスタートさせようとは微塵も考えませんでした。
その代わりに、当時鉄道や道路などのインフラ整備で需要が伸びていた砂利に目をつけ、相模川から砂利を採掘して販売する副業を行うことにしましたが、これが後に会社の経営を大きく左右することになるのでした。
ここまでお読みの方の中には「ん?相鉄って横浜~海老名・湘南台を結んでるんじゃないの?」という違和感を覚えていらっしゃる方も多いのではないかと思いますが、旧相鉄はもともと、現在のJR相模線を建設した鉄道会社でした。

「神」奈川の「中」央から

現在の相鉄線を建設したのは、これまた1917年12月15日に、鎌倉郡瀬谷村(現在の横浜市瀬谷区)で発足した、「神中鉄道」というこれまた小さな鉄道会社でした。旧相鉄の発足からわずかに三日前のことです。
結果的に砂利輸送主体となった旧相鉄に対し、こちらはどちらかというと、まだ農村部であった沿線の地元有力者が、横浜中心部へのアクセスを向上させるために計画した路線であったため、旅客主体で経営されることになりました。
当初は「神中軌道」と称し、軌道法による建設が予定されていましたが、横浜中心部へのアクセス路線とはいえ農村ばかりでは旅客の利用者数には限りがあるということで、こちらも相模川の砂利輸送を副業として行うことになったため、輸送力向上のために軽便鉄道法での建設に鞍替えされました。ちなみに軽便鉄道ではありますが、軌間は旧相鉄・神中のどちらも1067mmでした。
発起人は23人で、株式引受人はなんと699人も集まりました。その中でも瀬谷村からの期待は熱く、一人当たり700円もの出資があり、これは現在の価値に換算すると約200万円もの大金でした。ほかにも厚木村や海老名村から100人以上の株主が集まり、沿線民からの期待は並々ならぬものがありました。
社長には発起人の一人である小島政八氏とともに「瀬谷銀行」を設立した小島政五郎氏が就任し、本社は保土ヶ谷に置かれました。これは当初ルートが横浜ではなく保土ヶ谷駅に接続するものであったためです。

丘の上に鉄道を引く

当初のルートは、保土ヶ谷駅から保土ヶ谷元町、二俣川を経て、海老名村河原口に至るものでしたが、これは軌道時代のルートであり、以後たびたび変更が重ねられました。
「横浜と言えば海辺の街」というイメージを持たれる方も多いかと思いますが、私のような横浜市民が横浜に持つイメージはむしろ「横浜は丘の街」というものです。「神戸のパクリじゃないか!」とお叱りを受けるかもしれませんが、これは紛れもない事実で、平坦な土地なのは横浜駅周辺やみなとみらいなどの埋め立て地のみなのです。一歩内陸部に入ればそこは急な坂道が続く丘陵地帯で、急な坂を上り下りできない鉄道にとってはなかなか厳しい条件が揃う街です。
その丘陵の中部には、西から東へ「帷子川」が流れています。かつてアザラシのタマちゃんが現れた川として記憶に残る方もいらっしゃるかと思います。この川の沿岸ははるか平安時代から栄えており、比較的古い住宅が軒を連ねる場所です。
さらに西方に向かうと、丘陵地帯を抜け今度は「相模野台地」が広がります。この台地の上は水利がなく、土地も痩せていたために集落もまばらでした。唯一養蚕業が盛んで、明治維新後の生糸輸出には大きな役割を果たしたと言います。
神中鉄道は地元資本の小さな鉄道であったため、莫大な費用を要する鉄橋やトンネルの建設は最低限に抑えなければならず、必然的に帷子川に沿ったルートになりました。これが現在の鶴ヶ峰以東におけるカーブの多い線形の原因となっています。さらに、相模野台地上では集客のため、わずかな集落に少しでも近づけるルートが取られました。
また、起点の変更は何度も何度も行われ、まず保土ヶ谷駅が貨物専用となることが分かったために起点を二代目横浜駅に変更、さらにその後大正15年には三代目横浜駅の完成に伴い、またまた起点を変更しています。
最終的には現在の相鉄線のルートに落ち着き、全長26.0kmのルートが確定することになりました。
起点は保土ヶ谷ではなくなってしまいましたが、後に西横浜から保土ヶ谷までの間に貨物専用の側線が建設されたことにより、当初予定していた「保土ヶ谷駅から鉄道院線へ貨物列車を乗り入れる」という目標は達成されました。1979年に保土ヶ谷駅の貨物扱いが廃止されるまで、この側線は神中鉄道および後の新生相模鉄道の経営を支え続けたのです。


二章へ続く

2015/11/02起稿

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