二章 翻弄される男たち

大戦景気

神中・旧相鉄が創立した当時、世界では第一次世界大戦が行われていました。日本はいわゆる「戦争特需」により景気がどんどんと良くなっていましたが、同時に資材不足や価格の高騰も起こってしまっていました。
神中は旧相鉄の半分の資本金で創立したこともあり、資材を満足に購入することが出来ず、工事は進められないだろうという暗い見通しでした。案の定政府当局によって定められた着工までの期限に間に合わせることが出来ず、期間の延長申請をして事なきを得ましたが、それでも1年間の延長しか認められなかったため、着工前の測量作業は慌ただしいものになってしまいました。
一方で、神中の倍の資本金を持ち合わせていた旧相鉄も、この価格高騰には相当悩まされていました。当時社長に就任していた岡崎久次郎氏は「鉄成金」と呼ばれたやり手の実業家でしたが、神中の倍とはいえ60万円のわずかな資本金では、当初予定していた茅ヶ崎~厚木間の開業は相当困難だろうと予想されていました。案の定、第一期工事区間は茅ヶ崎~寒川間の5.0kmに短縮されることになりましたが、これがのちに旧相鉄に苦境をもたらすことになります。

一転、金融恐慌

物資不足と価格高騰に悩まされながらも、少しづつ建設に向けて動き出していた両社でしたが、第一次世界大戦終結後の1920年(大正9年)に起こった金融恐慌で、再び苦境に立たされることになりました。
この恐慌は戦争中に過剰に生産していた物資が、戦争終結後に過剰在庫となってしまったことが原因で、多くの銀行・商店・企業が倒産を余儀なくされ、国内は大混乱となりました。
神中はこの頃、少ない資本金の増資を進めようとしていましたが、恐慌により増資は見合わせ、工事も一時延期とせざるを得なくなってしまいました。経営陣は鉄道業の経験もない地元の有力者たちで、さまざまな点で不都合が生じ、これ以上の事業の継続は難しくなってきていましたが、1921年(大正10年)11月27日をもって、取締役として元京王電気軌道の井上篤太郎氏を、社長として元成田鉄道の斉藤和太郎氏をそれぞれ選任し、ようやく鉄道経験者による合理的経営が行われていくことになりました。その後は、後にビール王として名を馳せることになる馬越恭平氏や、横浜鉄道・横浜倉庫を興した渡辺福三郎氏らの支援を受けて、1923年(大正12年)8月には工事を開始できるまでに立ち直っています。
旧相鉄は恐慌前の1919年(大正8年)からすでに着工しており、副業の砂利の採取を行う場所もすでに決まっていましたが、恐慌の資金への影響は思いのほか深く、資金難の責任を取って最終的に社長の岡崎久次郎氏以下取締役が二人を除いて全員辞任するほどでした。この時点で、経営陣の茅ヶ崎との関係はほとんど無くなってしまい、その後茅ヶ崎関係者が経営陣に加わることはたった一例を除いてありませんでした。

神中鉄道建設記

1918年(大正7年)の株主総会で「神中軌道」から「神中鉄道」に変わった神中線は、厚木から二俣川に向かって建設が進められていきました。1923年(大正12年)の関東大震災により、着工は1年遅れて1924年(大正13年)8月23日でしたが、工事は急ピッチで進められ、なんとこの15.5kmの区間が着工翌年の1925年(大正14年)にはほとんど竣工していたというのだから驚きです。起伏の多いこの区間には盛り土による築堤・掘割・暗渠・橋梁が多く、特に橋梁に関しては、一部で鉄桁を用いていましたが、大部分は木造でした。予算がない中での工夫の一つですが、これが工期短縮につながっていた要因の一つなのかもしれません。
途中駅には、相模国分(現信号所)・相模大塚・大和・瀬谷・二ツ橋(廃駅)・三ツ境が置かれることになりました。当時の相模大塚駅は現在でいうところのさがみ野駅あたりにあったため、現在でも当時と同じ位置に残っている旅客駅は大和・瀬谷・三ツ境・二俣川のこの4駅のみということになります。
また、関東大震災からの復興特需で再びの資材価格高騰に陥っていましたが、資本金増資で何とか対応し、耐震構造の建物を建設する上で不可欠なコンクリートの材料として、砂利の需要が高まってきていたため、神中も相模川の砂利採取と販売認可を取得しました。さらには厚木から大山(おおやま)を結ぶ予定であった「相陽鉄道」という路線の免許も譲り受け、神中はようやく将来の見通しが立てられるようになってきました。

相模鉄道建設記

鉄道建設の際の都市伝説として、いわゆる「鉄道忌避伝説」があります。さまざまな理由で住民が線路敷設に反対したため、従来市街地を無視するようなルートで建設されたり、駅が中心部から遠く離れた場所に建設されたりするというようなものですが、旧相鉄の場合もこうした反対運動が各地で起こっており、用地買収には相当の困難があったようです。
着工前に行われた茅ヶ崎~厚木間の用地買収では、寒川村の村会議員を先頭に、洪水が起きた際の排水上の問題があるとして反対を表明していました。また、同じく寒川村の倉見や、有馬村門沢橋でもトラブルがあり、和解策として駅が設置されるなど、あの手この手を尽くしての懐柔が行われていました。
起工式は1919年(大正8年)11月21日、第一期工事区間でただ一つの途中駅である香川駅予定地によって行われました。茅ヶ崎から北へ北へと建設が進められ、また寒川~川寒川間の、砂利採取のための貨物線も同時に敷設されました。鉄道省から機関車や客車、貨車の払い下げも受け、1921年(大正10年)には試運転を実施。恐慌下ではありましたが、工事自体は着々と進んでいきました。


三章へ続く

2015/11/08起稿

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