三章 開業、そして真っ赤な経営

案の定…

1926年(大正15年)5月12日、会社創立から実に8年と半年の歳月を経て、県央民待望の鉄道が厚木~二俣川間でようやく開業の日を迎えました。神中鉄道の始まりです。
現在では、海老名~横浜間の一部として相鉄の稼ぎ頭となり、最大で毎時13本もの列車が行きかう同区間ですが、当時は1日7往復のSL牽引列車が細々と行きかうだけの超ローカル線でした。二俣川~厚木間の全線を乗り通すと45分かかり、とても速達性が良いとは言えませんでしたが、それでも当時の県央部での主要交通機関である馬車や人力車よりは早かったのです。
さて、当時はすでに鉄道業界でも電気の有用性が認識されつつあり、新規開業路線はどこも全線電化で電車や電気機関車が行きかうものが多かったのですが、神中鉄道はあえてこのご時世に全線非電化で開業しています。地元資本で資金が少ないことはもちろんのこと、電気機関車というものはまだ輸入機が中心で技術が未発達であり、なおかつ重い砂利を運ぶという目的上引っ張る力に優れた蒸気機関車の方が優位であったことも一因でした。
節約に節約を重ねて出来た神中鉄道でしたが、案の定売り上げは伸び悩んでしまい、1926年上期には実に65966円55銭1厘という大赤字を叩き出してしまいました。当時の1円を現在の価値に直すとおよそ574円となりますので、つまり3786万4800円の赤字ということになります。頼みの綱であった政府からの補助金も、43810円50銭と赤字相殺には至らず、初年度から厳しい経営となってしまいました。

副業はじめました→やめました

本業の鉄道業を補完すべく、途中から副業として定められた砂利業の営業も、鉄道線の開業とともに始められることになりました。良質な砂利の産地である相模川から、県都横浜へ一直線に結ぶ鉄道であることから期待を集めていましたが、二俣川までしか路線が開業しておらず、それ以東へは必然的に積み替えが必要となってしまい不便で、おのずと販売ルートが沿線に限られるようになってしまい、業績は良いとは言えませんでした。
そこに追い打ちをかけるがごとく、1928年(昭和3年)に起きた記録的豪雨により採掘のための設備が片っ端から流されてしまい、初めての副業は悲惨な形で幕切れを迎えてしまいました。
一方で、旅客向けには二俣川から先横浜方面へ向かいたい乗客のために、乗合自動車業を始めることになりましたが、路線が横浜まで延伸されるまでの応急的な措置であり、路線が西横浜まで延伸され、横浜市電と接続できるようになったため、1929年(昭和4年)9月5日をもって廃止されています。

長い歴史の始まり

一方で、相模鉄道の開業は神中鉄道最初の開通からさかのぼること5年、1921年(大正10年)9月28日のことでした。工事区間の短縮も功を奏して、茅ヶ崎~寒川間わずか5.0kmの本線と、寒川~川寒川間の支線は無事に開業を迎え、1年後の1922年(大正11年)5月10日には寒川~四之宮間の貨物線も開業させるなど、順風満帆なスタート…ではありませんでした。
工事区間の短縮はすなわち集客可能な範囲の縮小も示しており、旅客収入はもちろんのこと頼みの綱の貨物収入も思うように上がらず、神中鉄道と同じく赤字経営となってしまいました。途中駅が香川駅のみであるという状況では、旅客誘致しようにもどうにもならず、相模鉄道は砂利業に頼り切った経営を強いられることになります。
ちなみに、この貨物収入のほとんどは相模川で採取した砂利の輸送によるものでした。相模鉄道の貨物列車=砂利輸送という図式は沿線の住民にも浸透し、旧相鉄が「砂利鉄」と親しまれるきっかけにもつながるのでした。

「砂利鉄」

「砂利鉄」こと旧相鉄の大黒柱ともいうべき砂利業は、鉄道開業以前の1919年(大正8年)7月22日からすでに始められており、当初は手堀りで採った砂利をトロッコで茅ヶ崎まで運び、東海道線の貨物列車に積載していましたが、鉄道線開業後は貨車輸送に切り替えられました。
輸送量が飛躍的に上がったことで、潤沢な資金を得て、設備の改良が積極的に行われていきました。また、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災では、沿線に深刻な被害をもたらした一方で、復興需要や耐震性の高い鉄筋コンクリート造りの建物に注目が集まったことで砂利の需要が爆発的に伸び、採取量の増大のため手掘りから関東で初めての砂利採取船の導入、汐留の貨物駅に砂利専用の荷揚げ設備の新設を要請、貨車130両と機関車4両を新造するなど、旺盛な需要に対応する策が大胆に講じられ、旧相鉄は月に7万~8万トンもの砂利を輸送する、関東有数の砂利鉄道としてその名を轟かせるまでになりました。
この砂利業の好調は経営にも影響を与え、1926年(大正15年)下期には年12%の配当を初めて実施できるほどでした。まさに「砂利鉄」の黄金期だったのです。


四章へ続く

2015/11/18起稿

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