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四章 起死回生の延伸工事

間もなく横浜

県央部から横浜を結ぶ鉄道として開業した神中鉄道。当初は途中駅止まりで経営には苦戦を強いられていましたが、いよいよ二俣川~星川(現上星川)間が1926年(大正15年)12月1日に、さらに北程ヶ谷(現星川)までが1927年(昭和2年)に開業し、目的地の横浜が近づいてきました。
その一歩手前、西横浜までの延伸にめどがついたところで、神中鉄道の建設に尽力した斉藤和太郎社長は退任。後任として専務取締役の守屋此助氏を充て、なぜか東京にあった本社が西横浜に移転してくるなど、経営面で動きがあったのち、1929年(昭和4年)には西横浜までが延伸開業しました。
駅としては繋がっていないものの、とうとう国鉄線との接見を果たし、横浜中心部まで市電や大きな道路で結ばれたことにより、旅客・貨物ともに輸送量は激増しましたが、未だに経営は政府補助金に頼ることが何度かあるなど、依然として資金難でした。ここまで来たからにはと横浜駅延伸への期待感は高まっていましたが、延伸線を建設する用地が乏しいこともあり、ひとまず運営効率を高めることに注力することになりました。
そこで従来の蒸気機関車に代わり登場したのが「ガソリンカー」です。その名の通りガソリンで動くディーゼルカーのようなもので、蒸気機関車よりもエネルギー効率がよくストップアンドゴーが容易であることから、経費削減と運転頻度の向上が期待されていましたが、故障が頻発して修理費・改造費がかさんでしまい本末転倒といった状況でした。

北進するレール

砂利業の好調により黄金期を謳歌していた旧相模鉄道では、鋳鋼関係の関税が値上げされるということで、北への延伸工事が急がれることになりました。1926年(大正15年)1月25日に寒川~厚木間延伸の起工式が行われ、そのわずか三か月後には倉見まで、さらに三か月後には厚木まで開業するという怒涛のスピード開業。こうして旧相模鉄道と神中鉄道がついに接続し、既に開業済みの小田原急行鉄道(現小田急電鉄)と合わせて、県央部の鉄道ネットワークが徐々にその姿を現してきました。
延伸に当たっては、倉見・社家・厚木の各駅を当時としては画期的だった鉄筋コンクリート造とし、また鉄骨構造も用いるなど、先進的な建築技術を積極的に取り入れました。関東大震災でその耐震性が評価されたことももちろんですが、コンクリート製造に必要である砂利をアピールする目的もあったのではないかと思います。当時の駅舎は現在でも倉見駅と社家駅に残っていますので、ぜひ訪ねてみてはいかがでしょうか。
一方経営面では、資本金を一挙に500万円まで増資して、茅ヶ崎~寒川間の複線化、あるいは電化といった事柄が計画されていました。後者が実現したのは国鉄に移管、さらにJRに変わった後であり、前者は現在でも実現していません。この後昭和恐慌・戦争と続き、旧相鉄にその余裕がなくなってしまったと考えられますが、これが実現していれば、現在の相模線は都市近郊のベッドタウンを走る通勤路線として、一定の地位を得ていたかもしれません。
さらに北方への延伸は続き、1929年(昭和4年)7月30日には厚木~橋本間を一挙に着工することになりますが、この工事には思わぬ障壁が立ちはだかりました。

相武電気鉄道のお話

※相武電気鉄道に関しては、相武電鉄上溝浅間森電車庫付属資料館様に詳しく紹介されていますので、こちらも合わせて御覧になられることをお勧めします。

1921年(大正10年)4月、旧相鉄とは相模川を挟んで対岸にある、津久井郡湘南村(現相模原市緑区)葉山島にある東林寺というお寺にて、伊富貴音吉という人物が相模川右岸への鉄道建設の必要性を説いていました。上溝や田名といった地域は製糸業が盛んで、後者は景勝地「水郷田名」としても有名でしたが、既存鉄道から距離があるため近代化が遅れており、川を渡ることが大変なことであった当時、相模川という巨大河川を挟んだ対岸にしか鉄道がない葉山島周辺地域はなおさらのことでした。地元住民はたちまちこれに賛同し、鉄道会社を新たに作ることになりました。これが「相武電気鉄道」の始まりです。
相武電鉄は建設に当たり、「東京渋谷から鶴川・淵野辺・上溝・田名を経て愛川に至る」という壮大な計画を立ち上げて免許を申請しました。当然長距離の建設には莫大な資金が必要で、資金不足は言うに及ばず、さらには地元地主の反対に遭うなど紆余曲折がありながらも、何とか第一期区間の開通見込がつき、さらには第二期の26km区間の工事に際して津村順天堂(現ツムラ)の津村重舎氏が社長になる話も持ち上がり、地元では大いに盛り上がっていました。工事は連日深夜まで行われ、用地を提供する篤志家が現れたほどでしたが、予想に反してその先の用地買収は困難を極め、さらに昭和恐慌のあおりもあって工事が一切中止されてしまいました。
そのころ旧相鉄は厚木~橋本間の工事を順調に進め、1929年(昭和4年)11月には橋本方の路盤が完成し、番田以南の工事もつつがなく進められていました。しかし、なぜか横山下(現在の上溝駅あたり)だけは全くの手つかずでした。そう、ここは相武電鉄との交差点だったのです。
計画では旧相鉄が高架、相武電鉄が地上に線路を引いて交差する予定でしたが、双方の行き違いにより高架の高さが規定値に達しないことが分かり、相武電鉄側に地面を掘り下げるよう願い出ていたのですが、相武側が資金面からこれを拒否。それならばと旧相鉄側が工事をすべて請け負うと提案するも「会社の威信に関わる」としてこれも拒否。交渉が完全に行き詰まる中、相武側が工事施行申請を提出したことで事態はさらに混迷し、相武側の従業員がバリケードを設置して妨害を働き、警察が出動するほどの騒ぎとなってしまいました。このありさまを見て痺れを切らした上溝の有力者が、旧相鉄に対し資金提供を申し出、この際相武電鉄の要求を呑もうと提案してきたことを受け、再度相武側に打診しますが、今度は切り下げを行った際の残土輸送を旧相鉄側が無償で行うことを主張してまたも拒否。仲介役であった代議士もこの相武側の態度に呆れ手を引いてしまい、最終的に鉄道省を調停役として、旧相鉄が相武電鉄に2万4千円を支払うことで交渉が成立し、1930年(昭和5年)になってようやく工事を再開することが出来ました。
その後、相武電気鉄道の工事は全く行われることなく、1935年(昭和10年)に免許が失効、会社も破産となりました。江戸時代、大山詣で帰りの人々が立ち寄ったという景勝地「水郷田名」の名が、駅名として残ることはありませんでした。


五章へ続く

2015/11/28起稿

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