五章 経済の嵐

昭和恐慌と新たなライバル

第一次世界大戦の反動による不況の後、関東大震災からの復興事業によって一時的に回復に転じた経済ですが、1927年(昭和2年)に起きたいわゆる昭和金融恐慌に始まり、1929年(昭和4年)に発生したアメリカ・ウォール街の株価大暴落が日本にも影響を及ぼし始めたことで、日本経済は一層深刻な不況を迎えることになりました。この不況は後に「昭和恐慌」と名付けられ、戦前日本における最も深刻な恐慌として扱われることになります。
その一方交通業界では、関東大震災で自動車が輸送機関として活躍したことで乗合自動車業、いわゆる「バス」の台頭が進み、鉄道業・軌道業を圧迫するようになってきていました。
旧相鉄・神中の両社もこの流れには逆らえず、これまでよりもより厳しい条件のもとで経営することを余儀なくされていきます。

全線開通

旧相鉄最初の開業から10年が経過した1931年(昭和6年)4月29日、厚木~橋本間18.7kmの開通により、相模鉄道は茅ヶ崎~橋本間全線の開業を迎えました。当時は各駅で記念の花火が打ち上げられるなど沿線が一様に祝賀ムードに包まれ、旧相鉄も5月末までの間運賃を30%引きする大胆なサービスを行ってそれに応えました。
しかしながら、建設費が当初の予定よりも嵩み、さらに運の悪いことに主力の砂利業が不振とあってはどうにもならず、再び経営は行き詰っていました。人事の面では1931年(昭和6年)から1932年(昭和7年)にかけて経営陣の交代が行われ、最終的に前京浜電気鉄道取締役の曽我正雄氏が常務取締役に就任して落ち着きますが、収支では1931年(昭和6年)度上半期から連続5期に渡って赤字が続き、日本興業銀行に対する未払いの利息が25万9300円あまりに達する非常事態となっていました。運よく特別措置により10万円の支払いが免除されたため、1933年(昭和8年)度下期には債務免除による利益を計上し、また多摩川では砂利乱掘禁止令が発令され、相模川筋の砂利の価格が上昇したことで収入も回復。何とか事なきを得ました。
その一方で、本業の鉄道業でも普通旅客の減少が深刻な問題となって浮上してきていました。もともと旧相鉄の路線は相模川の河岸段丘をなるべくゆるい勾配で登るために、当時の集落から少し離れた場所に敷設され、駅周辺の人口が少なかったのです。また、当時はまだ日常的に鉄道を利用する機会がある人も少なく、1932年(昭和7年)に藤沢自動車株式会社が橋本駅を拠点に大型バスを運行し始めたことで、数少ない乗客も奪われつつありました。旧相鉄ははじめ、運賃の値下げによって対抗しましたが、鉄道線の倍以上の本数があり、若い女性車掌によるサービスや、乗車率の高い路線の値下げなど大胆な施策を次々と行っていたバス会社には全く及びませんでした。

乗客増の奇策

そこで旧相鉄は、従来の蒸気機関車列車から、経済性の高いガソリンカーを導入して列車を増発し、バスに対抗するという施策を打ち出しました。このガソリンカー導入の流れは、乗合自動車への対抗という目的のもと、神中鉄道をはじめ全国各地の地方私鉄で流行しつつあり、特に旧相鉄ではストップアンドゴーの容易さを生かして、途中駅増設による乗客誘致が積極的に行われました。また、沿線から各種観光地への団体旅行パックを発売したり、旧相鉄自身も茅ヶ崎に海水浴場と海の家を開設したりと乗客を誘致するために様々な業種に挑戦していきました。
さらに1935年(昭和10年)からは従来のガソリンカーに引き続き、日本の私鉄史上唯一の電気式気動車であり、日本初の電気式ディーゼルカーである「キハ1000形」という車両を導入します。電気式気動車とは、エンジンによって電気を起こし、その電気で駆動する現在のハイブリッドカーの走りのようなもので、従来の「機械式」という方式では行えなかった複数両の連結運転も簡単、操作は容易、後の電車への転用も簡単と、コストはかかるもののいいことづくめでした。また、従来の燃料であるガソリンに代わり軽油を採用したことで、経済性と安全性も向上しています。当時この電気式気動車の技術は、日本国内では目下研究中の最先端技術でしたが、旧相鉄は当時世界最高平均速の列車であった特急「フリーゲンデル・ハンブルガー」の車両として電気式気動車が使われていることに目をつけ、その車両を製造していたドイツ・ユンカース社の技術を採用しました。
導入の1年後、1936年(昭和11年)1月15日からは省線八王子駅への乗り入れが開始され、「相模のフリーゲンデル・ハンブルガー」ことキハ1000形は、茅ヶ崎~八王子間を最速1時間12分で結ぶ俊足ぶりを見せました。八王子への直通列車は一日6往復の運行でしたが、八王子の人々が茅ヶ崎の海へ泳ぎに行くには大変便利で、休日には茅ヶ崎に建てられた旧相鉄直営の海の家が超満員になるほどの大好評であったそうです。

砂利業の再編と盛衰

これまで、相模川筋では旧相鉄を利用する系列と、小田原急行鉄道を利用する系列が激しい競争を繰り広げていました。砂利の価格は震災からの復興需要がひと段落したことや、不況の影響によって低迷を続け、販売競争は相模川に限ったことではありませんでした。
こうした情勢を憂慮した同業者一同が、過度の販売競争に対処するべく、同業者間の販売統制と価格協定のために横浜砂利共同販売組合という組織を結成。旧相鉄もそこに加入したことで、県下における旧相鉄の砂利業は有利に展開していきます。
勢いに乗った旧相鉄は、小田急線系列の昭和砂利工業㈱の株式を80%強取得し、また同社の砂利を販売していた田淵砂利㈱の株式の半数を手に入れ、実質の経営権を手中におさめます。引き続き、小田急線系列の相模砂利商会と販売契約を結んだことで相模川筋での勢力図は一転、旧相鉄の一強という状況に様変わりすることになりました。
その後、相模川と並んで主要な砂利産地であった多摩川の砂利生産が、先述の砂利乱掘禁止令のあおりもあって著しく減少したため、旧相鉄は一躍関東の有力砂利業者として名を上げることになるのでした。

背水の陣で横浜へ

一方神中鉄道も、恐慌の中厳しい経営を強いられていました。砂利の需要が減少の一途をたどり、1929年(昭和4年)秋から砂利の出荷量、その運輸収入が大きく減少していたのです。同業者間の販売競争が熾烈を極め、ついに採算を度外視した発注に走るまでになり、1930年(昭和5年)6月には砂利運輸の柱であった東京汐留送りの輸送が中止される事態となってしまいました。
その年の後半にもなると、不況はさらに深刻化の一途をたどり、運輸収入も比例するように減少。挽回するべく各駅の改良工事や、新駅の開設、列車本数の増発、運賃の割引、厚木町への連絡自動車の運賃無料化を行って、旅客確保に動きますが、効果はほとんどありませんでした。
こうした経営不振の中、1931年(昭和6年)守屋此助社長が辞任。替わって飯田律爾氏が常務取締役(代表取締役)に就任し、社長空席となりました。まさしく「背水の陣」となったわけです。
そんな中、1931年(昭和6年)10月25日、横浜駅への延長線の内、平沼橋駅までを省線の側線を借り入れることで営業を開始し、その2年後となる1933年(昭和8年)12月22日、最初の開通から7年7か月の時を経てついに念願の横浜駅到達、全線開業が達成されることになりました。
この年の下期運輸収入は、横浜駅乗り入れはもとより運賃引き下げの効果もあって、前年同期比64.2%の上昇というとんでもない上昇幅でした。経営陣は大いに沸いたことでしょう。
その後1935年(昭和10年)からは、旧相鉄に引き続き神中鉄道でも初めてのディーゼルカー「キハ30形」を導入し、旺盛な旅客需要に応えました。
先ほど「省線の側線を借り入れることで」と記しましたが、この名残は現在でも「相鉄の下り線がJRの架線柱を間借りしている」点に見ることが出来ます。


六章へ続く

2015/12/04起稿

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