六章 時代は戦争へ

戦争の勃発

1937年(昭和12年)、日中戦争が勃発します。戦線は瞬く間に中国大陸各地に拡大し、世間は戦争ムード一色に染まりつつありました。
そんな中、翌1938年(昭和13年)4月2日には陸上交通事業調整法が施行され、鉄道業界やバス業界では、戦時輸送体制確立のために事業を再編成する動きが現れてきました。
日本が第二次世界大戦に参戦すると、企業活動はますます戦争協力へと集約されることになり、戦局が不利になりつつあった1942年(昭和17年)6月以降、国内では更なる戦力増強のため軍事施設、軍需工場地帯の強化が進められ、私鉄各社もこれらからの輸送力増強を強く求められるとともに、地方鉄道の買収、合併が推し進められていきました。

大東急の礎

念願の横浜乗り入れを果たし、旅客収入が増加した神中鉄道ではありましたが、それも一時的なものにとどまり、その後会社全体としての業績は芳しくありませんでした。
資本金を300万円から150万円に減資して、損失の補てんと資産償却に充てる有様で、債務超過寸前の自転車操業状態が続いていたのです。
また、戦時統制化に入ってしまったことでガソリンや重油が入手困難となり、新車両の購入も困難、修理部品の品質も低下するなど悪条件が重なったことで、当時幸いにも増加傾向にあった輸送量の消化に支障をきたすほどにまでなっていたため、ガソリンカーやディーゼルカーから、電化による電車列車への転換が迫られていました。

そんな中現れたのが、当時東京横浜電鉄(現東急)の社長であった五島慶太氏でした。「私鉄が国に買収される前に、合同して戦時協力をすれば国もすべての私鉄を買収することはないだろう」と考えた五島氏は、関東南西部を中心に、私鉄の株式を買収し始めていました。
また、各線の改良で出た変電所や車両等の遊休資材が豊富にあり、これの有効活用先を模索していました。
そこで目を付けたのが、神中鉄道です。
1939年(昭和14年)11月20日、神中鉄道の社長に五島慶太氏が就任することになりました。こうして、神中鉄道はのちの大東急の礎として名を刻むことになったのです。

大改造計画

神中鉄道が東京横浜電鉄の傘下に入った後、最初に行われたのは海老名駅の新設でした。これまでは、厚木駅で相模鉄道と接続していた神中鉄道でしたが、小田原急行鉄道(現小田急)とは接続が悪く、同線河原口駅(現小田急厚木駅)まで400mほど歩かねばならず、不便極まりない状態でした。
そこで、1941年(昭和16年)1月20日から、相模国分~海老名間の新線建設に着手し、同年11月25日に小田原急行鉄道との共同駅として海老名駅を新設、相模厚木駅(現小田急本厚木駅)までのディーゼルカー乗り入れを開始しました。この時点ですでに五島慶太氏は小田原急行鉄道の社長にも就任しており、着々と関東南西部の鉄道を手中に収めていく様子がうかがえます。

続いて行われたのが、輸送密度の高い横浜~西谷間の電化でした。1941年(昭和16年)から工事に着手しましたが、物資統制下で電化資材の入手は困難であったため、車両、変電所等は東京横浜電鉄が所有していたものを流用して工事は勧められ、翌年に星川変電所が完成、6月1日からは横浜~西谷間折り返しの直流600Vによる電車列車の運転が実現しました。

電化により旅客の輸送力増強が進められる一方、沿線には厚木海軍航空隊をはじめ、横須賀海軍鎮守府管轄の高座工廠や瀬谷被服廠が次々と設置され、神中鉄道の輸送の主力は旅客から貨物へと移り変わりつつありました。軍需施設の建設用資材を輸送するため、1日に貨車50両~70両という膨大な輸送計画を要請されていた神中鉄道でしたが、単線であることや、人手不足のために計画通りの輸送ができず、軍からは複線化を実施し、輸送の円滑化を図るよう強く要請されていました。

株式の行方

日中戦争が勃発してより、旧相模鉄道沿線の農村地帯は次第に軍需工業地帯へと変革を遂げつつありました。淵野辺付近には兵器支廠や歩兵連隊が移転、座間新戸駅付近には陸軍士官学校の一部が完成して開校していました。軍関係者や、これに関連する利用客などの増加に伴って、旅客収入は増加となり、砂利業においても軍事施設の建設や、京浜方面の重工業に発展に伴って砂利の需要が高まり、いわば絶好調の状態でした。

そんな中、寒川から分岐する四之宮砂利支線に、昭和産業㈱の工場が進出してきました。同社の伊藤英夫社長は、当時朝鮮で活躍していた森矗昶(もりのぶてる)の勢力をバックに、旧相模鉄道の株式全10万株のうち、42%をも買い占めていました。この筋の要求により、社長も南波氏より千葉三郎氏に変わり、経済統制の強化によって不安定となった旧相模鉄道の経営を、事業の合理化や工場の誘致などによる沿線開発、車両の増備等で立て直しました。砂利業においても採取能力を高め増収を図りましたが、運悪く1941年(昭和16年)6月に起きた相模川の空前の出水により、川筋の砂利採取所は未曽有の被害を受け、4か月にわたって採取不能という最悪の状況に陥ってしまうことになりました。軌道に乗り始めた旧相模鉄道の経営は、再び苦境に立たされるのでした。

この状況に対しさらに追い打ちをかけたのが、昭和産業㈱社長で、旧相模鉄道の取締役でもあった伊藤英夫氏の急死です。これにより、旧相模鉄道関連の持ち株4万株余りが一挙に放出されることになりました。
これに目を付けたのが、やはり五島慶太氏でした。関東南西部の鉄道統合を活発に推し進め、すでに江ノ島電気鉄道、神中鉄道、静岡電気鉄道をも手中に収めていた五島慶太氏は、この昭和産業の所有株をすべて取得し、旧相模鉄道をもその傘下に収めたのでした。

1941年(昭和16年)6月30日、折しも相模川の出水によって最悪の状況であった旧相模鉄道の社長に、五島慶太氏が就任しました。なおこの時、後の相模鉄道を躍進の道へと導くことになる、小田原急行鉄道常務取締役の川又貞次郎氏が、取締役として経営陣に名を連ねています。

大東急発足

1942年(昭和17年)5月1日、東京横浜電鉄は、京浜電気鉄道・小田原急行鉄道と合併を果たし、東京急行電鉄の名を変えました。いわゆる「大東急」時代の始まりです。
相模平野一帯の鉄道がすべて大東急傘下に入り、包括的な開発を行えるようになったため、同年10月1日に相模野臨時建設部を設け、以下の工事が進められることになりました。

  1. 神中鉄道の全線複線電化工事
  2. 江ノ島線と神中鉄道線の交点に駅を設置(のちの大和駅)
  3. 小田原線と鉄道省横浜線の交点に駅を設置(のちの町田駅)
  4. 厚木町に小田原線、神中鉄道線、相模鉄道線三社の共同駅を設置(現厚木駅と思われる)
  5. 神中鉄道線相模大塚駅の改良
  6. 省線茅ヶ崎駅・保土ヶ谷駅・原町田駅から、神中鉄道相模大塚駅までの貨物輸送に必要な工事

大東急の手により、相模平野一帯の鉄道は大きな変革を遂げることとなるのでした。


七章へ続く

2016/04/05起稿

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